こなひき太郎のkindle日記

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検証『検証・安保法案』(3)―青井未帆「『日本の平和と安全』に関する法制を中心に」

今回は、「安保法案の論点」のなかから、青井未帆先生の論文を取り上げます。

 

検証・安保法案:どこが憲法違反か
 

 

konahiki-taro.hatenablog.jp

 

日本の安保法制について議論するための前提

 青井先生によれば、憲法9条を「単なる理想」としてではなく、「国家を縛る法」として持つものとして解釈するのであれば、あくまで憲法は原則として軍隊の存在や武力行使を否定していると考えなくてはなりません。よってある自衛隊の活動を正統化するためには常に法的根拠が必要になります。

 自衛隊の活動を正統化する根拠は、その活動が原則の例外にあたるということ(「議論A」)、もしくはその活動が武力行使にあたらないこと(「議論B」)に求められます。前者には個別的自衛権の行使が、後者には後方支援が当てはまります。彼女によれば、この2つは別種のもので、混同されてはいけません。

 

「我が国の存立」は国家に対する制約機能を果たさない

 さきほど述べたように、憲法武力行使を原則として禁止しており、行使が許されるのはあくまで例外です。青井先生によれば、例外である以上、武力行使できる要件は明白でなくては、例外として機能しません。そして、「我が国の存立」を武力行使の判断基準とすることは、あいまいでありこの明白性の要件に反します。

 彼女は、これは「一般常識の問題に近い」議論だと主張します。ある家庭で子どもがテレビゲームで遊ぶことを原則禁止するルールがあったとします。それに対して、「宿題が終わった後、30分間なら遊んでよい」という例外を設けるならば、基準が明白であるため例外として機能します。しかし、「気分転換が必要なときに遊んでも良い」という例外を設けてしまうと、基準が不明確であるために、ゲームを禁止する原則は空文化してしまう、と彼女は主張します。

 

例外の曖昧性よりも、判断できる人が一人しかいないことが問題

 さて、青井先生は原則が空文化してしまう原因を、曖昧さだけに求めていますが、本当に原因はそれしかないのでしょうか。さきほどの例にそって考えてみましょう。たしかに、「気分転換が必要である」という例外は曖昧であるでしょうし、多くの場合原則を空文化させてしまうでしょう。どんな状況でも、子どもは「今は気分転換が必要だ」と主張できてしまうからです。

 しかし、それは単に例外が曖昧であるからでしょうか。気分転換が必要であるかいなかということは、子ども本人以外には判断不可能です。その時どのような気分で、テレビゲームがどのように気分を改善するのかは、本人以外は知ることができないからです。「気分転換が必要なとき」という例外が機能しないのは、単に規定があいまいであるからだけではなく、それを判断できる主体が、その行為をする人以外にいないからだと考えるべきです。

 このことは、たとえば「学校の宿題がある程度終わっていればテレビゲームをしてよい」という例外を考えてみればわかります。この例外は「宿題が終わっていれば」というものより明らかに曖昧ですが、学校の宿題がどの程度終わっているかは保護者にも確認できます。この例外は、少なくとも「気分転換が必要であれば」という基準よりは拘束力があるでしょう。もちろん、明白な例外を設けるほうが実効性が高いだろうことは言うまでもありませんが、原則が空文化するのは、曖昧性だけが原因ではないはずです。

 

統治行為論による、例外規定への解釈主体の不在

 さて、このことは憲法9条に対する例外について考えれば、より明白になるはずです。そもそも、憲法の規定は全体として曖昧で、特に人権についての規定は、それだけでは具体的にどのようなことを意味しているのか素人には理解できません。しかし、人権に関わる規定が何を定めているのかは、具体的事件の裁判のなかで問題となるため、裁判所の判決によってその意味するところを理解することができます。

 ところが、最高裁判所憲法9条に関わる多くの問題について、高度に政治的な問題については裁判所は判断を下せない、とするいわゆる統治行為論によって、判断を避けてきました。また、日本の違憲審査のシステムは、具体的な事件についての裁判のなかで違憲審査権が行使される付随的違憲審査制という仕組みをとっているため、憲法9条について裁判所に判断を求めること自体が難しくなっています。

 そのかわりに、これまでは内閣府法制局が憲法解釈を担い、行政府や立法府に対する立憲主義的なコントロールを行ってきました。しかし、法制局に対する人事権は首相にあります。これまでは法制局次長をそのまま昇進させることによって法制局による政府へのコントロールが守られて来ましたが、安倍首相はそれを破り、外務省出身の小松一郎氏を法制局長官にしてしまいました。

 つまり、ある法律が合憲であるか違憲であるかを判断する主体が、実質的に、それに基づいて武力行使を行うところの政権与党しかなくなってしまっているのです。法制局長官の問題は、もちろん安倍政権による法の支配軽視のあらわれですが、そもそも憲法9条を実効化させる仕組みを作っていない法システム全体の欠陥が根本にあるはずです。

 

憲法9条を守るために、改憲をすべきだ

 いくら憲法9条があっても、それが空文化されてしまいかねない法システムのなかで運営されているのであれば、何の意味もありません。憲法の人権規定についての違憲審査権が最高裁に属し、そこで付随的違憲審査制がとられることは妥当であるとしても、憲法9条については別個に政治的判断のできる憲法裁判所を作り、そこで具体的事件なしでも違憲審査のできる抽象的違憲審査制を採用すべきです。

 日本では憲法9条を擁護する人たちはよく「護憲派」と呼ばれますが、むしろ9条を守るためには憲法を改正し、9条による国家への制約機能を強化することが必要となるはずです。逆に、憲法9条を改正するのならば、なおさら政府をコントロールする仕組みが必要になります。政府をコントロールする仕組みづくりは、9条賛成派、9条改正派を問わず一致して取り組める課題だと思います。今回の法案を巡る論争によって、憲法の仕組み全体を見直す動きが強まることを期待します。

 

青井論文の多様な論点

 さて、ここまで青井論文のなかで、「我が国の存立」についての議論だけを取り上げてきましたが、青井論文はもっと多くの論点を含んでいます。一体化論や武器等防護、もしくはさきほど述べた議論Aについても、専門的見地から解説がなされています。ここではそのすべてを紹介することはできませんでしたが、たいへん勉強になる内容でした。

 

 柳澤協二「『国際秩序維持』に関する法制を中心に」に続きます。

 

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