こなひき太郎のkindle日記

人文社会系のkindle書籍をレビューします。

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(倉骨彰訳、思草社、2013年)―歴史学は科学でありうるのか

  今更ながら、朝日新聞の企画した「ゼロ年代の50冊」を選ぶ特集で1位になったことでも注目された、歴史書のベストセラーを読みました。

 

銃・病原菌・鉄 上巻

銃・病原菌・鉄 上巻

 
銃・病原菌・鉄 下巻

銃・病原菌・鉄 下巻

 

 

学術一般書ヒットの条件

学術的なテーマを扱いながら、一般向けに流行した書籍には、ある程度の共通する要素があると思います。記述が易しいこと、読者の好奇心を刺激する幅広い知識が提示されていること、そして、全体としての結論がクリアであることです。

  本書は、それらの特徴をすべて備えています。文章は平明で、読みやすく訳されています。そして、新大陸やオーストラリア大陸における侵略、農耕の発明と伝 播、東南アジアやアフリカにおける民族移動についての言語学的知見など、好奇心をそそるさまざまな知識が次々と提示されます。そして、「なぜユーラシア大 陸は発展し、アメリカ大陸やアフリカ大陸はユーラシア大陸ほど発展しなかったのか」という単純な疑問に対して、「ユーラシア大陸は東西に広がっていたが、 アメリカ大陸やアフリカ大陸は南北に広がっていたからだ」という明快で、歴史のロマンを感じさせる答えを用意しています。
  実際には、筆者の議論はこれほど単純なものではありません。そもそも筆者がはじめに提示する疑問は、アメリカやアフリカではなく、ニューギニアについての ものでしたし、結論部では、地域ごとの発達の差を生み出した原因として、大陸の形のほかに、地域ごとの栽培できる植物や家畜にできる動物の種類の多さ、大 陸の大きさ、大陸間での技術や栽培種が伝わるの容易さという要因を挙げています。この4つの原因は、筆者の言葉を借りれば、すべて「客観的に定量化」され たものです。

科学とは何か

 歴史学という学問は、一般に人文学に分類され、科学ではないと考えられています。これは、歴史学という学問が物理学や化学にくらべて劣っているということが言われているわけではなく、科学(science)と人文学(humanities)を区別する文脈によるものです。日本では「自然科学」(natural sciences)や社会科学(social sciences)と比較してよく「人文科学」という言い回しが使われますが、英語のhumanitiesには「科学」に当たる語がないのです。
 では、この場合の科学とはどのような意味なのでしょうか。物理学や天文学がこの場合の科学であり、歴史学や文学は科学でない、という点にはかなり広い意見の一致がありながら、科学基礎論の研究者たちは、これに明白な答えを出せていません。とはいえ、実験を行うことが典型的な科学の特徴であるということは指摘することができるでしょう。追試を行って研究成果の正しさを確かめることが、科学の客観性を担保しているのです。この基準を使えば、物理学は科学であるが、文学は科学でない、ということを説明すること ができます。
 しかし、天文学はどうでしょうか。筆者も指摘しているように、天文学では現実世界で実験を行うことはできません。それでも天文学が科学とみなされている理由は、天文学が未来に起こるできごとを予測するという点で、広範な成功を収めてきたからでしょう。実験を行うことができなくても、天体望遠鏡を使って空を観測すれば、理論が正確なものかどうかを客観的に、定量化して確かめることができます。

 

歴史学は科学でありうるのか

 さて、筆者は歴史学は科学であることができると主張します。もちろん、歴史学は物理学のように実験を行うことができるタイプの科学ではありえないでしょう。では、歴史学天文学と同じタイプの科学(筆者はこれを歴史科学と呼びます)であることができるのでしょうか。
  筆者も認めているように、歴史学によって未来を予測することは天文学によって予測するよりも難しいでしょう。しかし、それは全く不可能であるわけではありません。そもそも、実験を行うことのできない科学―天文学のような自然科学のほかにも、社会学や経済学、政治学のような社会科学の多くの学問が該当するでしょう ―は、広い意味で過去にあったできごと、つまり歴史をもとに未来を予測していると言っていいはずです。

 しかしながら、一万年以上に及ぶ人類史に対する分析は、本当に科学たりうることができるのでしょうか。人類史については、実験を行うことができないだけではなく、予測を立てて理論の正誤を問うことも実践的には不可能でしょう。そのためには、南北に広がる大陸と東西に広がる大陸によって構成されたままで、地球を新石器時代に戻し、それを一万年以上観察しつづ ける必要があります。歴史学が科学たりうる、という筆者の主張は、少なくとも本書の全体としての議論に関わるかぎり、やや無理のあるものだと言わざるをえません。

 

『銃・病原菌・鉄』の知的ロマンと説得力

 とはいえ、筆者の主張はロマンにあふれているだけではなく、多くの定量データによって支えられており、確かな説得力を持っています。長大な本書の末尾で触れられているだけの科学論上の些細な―そして不毛かもしれない―論点を追及することは、野暮なのかもしれません。